1. はじめに

本稿では、社会学、あるいは社会科学の方法論として、実証主義以後の有力な立場足りうると考える超越論的実在論について論じたいと思います。
 かつて、アンソニー・ギデンズは、「正統派の合意」ということを言いました。ギデンズのいう「正統派」とは、実証主義(ないし自然主義)、機能主義、産業社会論のことです。それらが結びついて、社会学を支配しているというわけです。かれがこうしたことを言っていたのは、1970年代のことです。むろん、いまでは、こうした正統派の合意は、すでに解体しているように思われます。すなわち、理論のレベルでは、機能主義のオルタナティヴとして、ギデンズの構造化理論もそうですし、ハーバーマスやルーマンの理論、その他さまざまな理論が提出されています。また、産業社会論にかわって、たとえばベックのリスク社会論が注目を集めたり、モダニティ・ポストモダニティの議論がにぎやかしく展開されています。しかし、実証主義に関してはどうでしょうか。確かに、素朴に実証主義を信奉する姿勢はもはや見られません。だが、実証主義にかわるなんらかの方法論が確立されたでしょうか。ポスト実証主義ということが言われたりもします。しかし、実証主義の問題点の指摘、そして実証主義に代わる何らかの方法論が必要らしいという掛け声だけで、その内実は見えてきません。それはおそらく、方法論に関する十分な反省が足らないからでしょう。方法論には過度にこだわらないほうがよいのかもしれません。しかし、時として、方法論への深刻な反省が必要とされるときがあると思います。
 近年では、社会構築主義的な考え方が登場し、それへの支持が急速に拡大しています。後にも言及しますように、社会的リアリティがコミュニケーションを通じて構築されたものであるという主張は、確かに正しいと思います。しかし、構築主義が言うように、あらゆる知識が構築されたものだとしたら、普遍的に妥当な社会科学的知識をわたしたちは獲得することができるのでしょうか。構築主義の意義を認めつつも、それとは異なった、ポスト実証主義、ポスト経験主義のアプローチはないのでしょうか。

2. 超越論的実在論とは何か

そこで、超越論的実在論です。とりあえず、その方法論的な特徴を3点挙げますと、第1に、因果的説明の可能性を擁護すること。第2に、社会的リアリティが構築されたものでもあるという解釈学的見解を受け入れること。そして第3に、批判の次元を重んじること、この3つです。
 超越論的実在論は、イギリスの哲学者である、ロイ・バスカーによって精力的に展開されているものです。しかし、こうした考えはかれのみによって切り開かれた訳ではありません。イギリスにおいて1970年代から1980年代初頭にかけて、ニュー・リアリズムと呼ばれて、地理学、政治学、社会学、組織研究、マルクス主義、批判理論など、さまざまな分野において展開され、一定の影響力を持つこととなったものです。その代表的論者として、バスカーを含めて、ロム・ハーレ(Harre, 1979)、ラッセル・キートとジョン・アーリ(Keat and Urry, 1975)、テッド・ベントン(Benton, 1977)らがいます。もちろん、これらの論者には、ある程度の相違がみられますし、必ずしも一枚岩としてあるわけではありません。しかし、基本的な立場は一致していると考えられます。最近になって、バスカーやマーガレット・アーチャーらによって編集された超越論的実在論のリーディングスが出版されました。アーチャーは、国際社会学会の会長も勤めた人ですし、ギデンズの構造化理論に対抗して、「文化の形態生成論」を提示した人ですが、そのかの女が、1995年に『実在論的社会理論』(Realist Social Theory)という本を出版し、バスカーに依拠して、超越論的実在論の立場にたつことを鮮明にしています。
 ところで、こうしたニュー・リアリズムが台頭した背景には、従来の社会科学の哲学において大きな位置を占めてきた経験的実在論および超越論的観念論に対する執ような疑念が存在しています。例えば、ポスト構造主義ないしポストモダニズムは、基礎づけ主義、すなわち知識が何らかのものに基礎づけられることによりその確実性を確保しているという思考をきわめてラディカルなかたちで告発しました。また、それらの登場をまたずとも、すでに科学的認識の合理性への疑いは生じており、それをもっとも顕著な形で示したのは、いうまでもなくエドムント・フッサールであるでしょう。いわば、こういった科学の危機あるいは西欧理性の危機は20世紀をおおった問題であり、ニュー・リアリズムは何にもましてこの問題に対する反応、マルクス主義的な立場からの反応だといえるでしょう。
 では、経験的実在論のなにが問題であるのか。経験的実在論とは、簡単にいってしまえば、知識の供給源として経験を据えるものです。経験的実在論ではなく、また超越論的観念論にも依ることができないとするならば、科学的認識の合理性はいかにして確保されるのでしょうか。バスカーのいう超越論的実在論の立場に立つと、知識の対象は、ヒュームに代表される古典的経験主義がそうみなしているような出来事それ自体ではありません。しかしまた、カントに象徴される超越論的観念論におけるような、人為的に構成されたものという見方も否定されます。では、超越論的実在論が想定する知識の対象とは何でしょうか。それは、諸現象を生起させる「構造」ないしは「メカニズム」である、とされます。しかしながら、この構造ないしメカニズムは、構造主義が主張するような人間により構成されたモデルではありません。そうではなく、実在するものとされます。
 例えば、レヴィストロースの構造主義において、とりわけ問題とされたのが、かれのいう構造が、研究者が作り上げたモデルであるのか、それとも実在であるのか、ということでした。どちらかといえばモデル説が有力であり、それゆえ、それに対して超越論的主体なきカント主義といったラベルが貼られたりもしました。超越論的実在論は、構造を実在とするところが構造主義と異なっています。

 ではなにゆえに、この立場は「超越論的」とされるのでしょうか。それは、世界がわれわれにとって可能である知識の対象である3とするならば、それらはいかなる属性を持つのかを超越論的に問うものだからです(Bhaskar, 1979)。といいますか、それは超越論的に問われるしかないようなものだからです。

 以上のことは、マルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』における次の言葉を想起させます。「いままでのすべての唯物論(フォイエルバハのもふくめて)のおもな欠陥は、対象、現実、感性がただ客体または直観の形式のもとにのみとらえられて、感性的な人間的活動、実践としてとらえられず、主体的にとらえられないことである」(Marx, 1845)、とマルクスは書いています。社会科学における厄介な二元論である主観主義と客観主義の両者を乗り越えるためには、社会現象という社会科学の対象をすでに与えられた客体としてではなく、「感性的な人間活動あるいは実践」として取り扱わなければならないし、それがいかなるものであるのかが超越論的に問われなければならない、というわけです。

 たとえば、日本においても、真木悠介がすでに同じマルクスの言葉に依拠しつつ、社会の存立構造論を提出している(真木, 1977)。真木は、マルクスに、「対象的=客観的に存立する社会的な諸形象・諸法則を、それら相互の函数的=機能的な関連を表示する公式やそのシステムとして外的に認識することに満足するのではなく、われわれ自身の主体的実践とその相互関係が、なぜ、いかにして、これらの諸形象・諸法則を存立せしめるにいたるのか、これらの対象的=客観的な諸事実を、いったんその生成の論理において、流動化して把握しなおそうとする意思」(真木, 1977, 14頁)を読みとっている。そして、「社会構造の「法則的」な認識に先立つ問い」(真木, 1977, 15頁)として社会の存立構造論の必要を説いています。このようにいうのは真木だけではありません。ブルデューもまた、その「実践の理論」をマルクスのこの言葉とともに始めており、真木とほぼ同様な認識を示していることを付け加えておきます(Bourdieu, 1980, 82-3頁)。

 ギデンズの考えについても触れておきたいと思います。かれは、あるインタビューで、超越論的実在論に言及しています。そこでは、超越論的実在論にある種の共感を寄せつつも、それに対して一定の距離を取っているように見受けられます。つまり、認識論に関しては、わけではない。また、素朴実在論でもいいようなことをいっています。それはともかく、かれもまた次のようにいってはいます。「社会学は、「客体のあらかじめ与えられた」世界にかかわるのではなく、主体の能動的な行いによって構成され、生産される世界を問題にする」(Giddens, 1976, 231)、と。ギデンズによれば、従来の社会理論においては所与の社会が客体としてあって、それをいかにして認識すべきかという認識論的関心が中心を占めてきた。しかし、社会が人々の日々の活動によって作り上げられているものであるならば、まず社会の存在論が、すなわち人間であること、人間がすること、そして人間の活動によって社会が再生産され、あるいは変形されることこそが概念的に把握されなければならないのである(Giddens, 1984, p.XX)。

 いずれにしても、超越論的実在論が認められるならば、社会科学においては社会の存在論がまず構築されなければならないということです。

超越論的実在論においては、リアリティの3つの領野ないし層が存在するとされます。すなわち、第1に事象を生起させる構造ないしメカニズム、第2に事象それ自体、そして第3に事象を知覚する経験です。このような考え方は、明らかに経験的実在論や超越論的観念論とは異なっています。繰り返しになりますが、この「リアル」な層を想定するところに、超越論的な実在論の特徴がある、といえます。

こうした考え方は、ブルデューにより展開されたものときわめて類似していると指摘することができるでしょう。すなわち、ブルデューの議論においても、現実の「3つの領野」が存在しているのです。たとえば、邦訳で『ブルデュー入門』という題名の本のなかで、ハーカーらは、バスカーとブルデューの手法の類似性について次のように書いています。「バスカーのなかでは社会システムが現実の三つの領野をもつと理解されている−第一にそれは、社会における深層構造や傾向と結びついており(ブルデューの手法はそれにたいして直接に言明する)、そして第二に研究者によってなされる「体験」と結びついている(ブルデューは反省的な情調で言明する)。さらに第三に、日常生活の経験にそっている」(Harkar, 1990, 275頁)。

バスカーとブルデューの類似性はさておき、超越論的実在論は、リアリティの3つの領野ないし層が存在するという考え方により、知識の基礎づけの問題を解決しているといえるでしょう。またそれにより、はじめて科学の成長の合理性を主張することができるのだ、と考えられます(Bhaskar, 1979)。

 注意すべきであるのは、現実の諸層のそれぞれの構成要素が1対1対応ではない、ということです。例えば、リアルな層の構成要素である構造と、現実的な層である事象が、必ずしも1対1で対応しているわけではありません。事象を支配している諸原因としてのメカニズムは直接的に把握することができないのです。というのも、そうした事象は、さまざまな要因によって多元的に決定されているからです。したがって、超越論的実在論は、決定論に傾くことはありません。このあたりのところは、アルチュセールにおける重層的決定のアイデアに似たものを感じます。もちろん、バスカーらは、アルチュセールの影響を受けていると思いますが。ついでに述べておけば、超越論的実在論は、系譜的には、アルチュセールらの構造主義的マルクス主義、そしてマッハ主義を批判して客観的実在を強調したレーニンへと遡ることができると思います。

3. 自然主義批判と批判的自然主義

 さて、このような超越論的実在論の立場がとられたとき、自然主義に対していかなる態度が示されることになるのでしょうか。バスカーは、批判的自然主義という立場を導き出しており、以下でそれについて確認しておくこととします。バスカーは、自然科学と社会科学が本質的に同じようなやり方で説明を行うことができるという意味における自然主義を狙上にのせ、検討を加えています。これは、社会科学の哲学における根本的な問題といえるでしょうが、バスカーによれば、この意味での自然主義をめぐる論争において、三つの立場が存在するといいます(Bhaskar, 1979)。その三つの立場とは、実証主義、解釈学、そしてかれのいう批判的自然主義です。実証主義は、あらためていうまでもなく、その統一科学の主張から、まったくの自然主義です。それに対して、解釈学は社会科学と自然科学の方法論的相違を強調する意味において、反自然主義の立場にたっているといえるでしょう。そして、社会科学の方法論をめぐって、自然主義と反自然主義の対立を乗り越えるものとしてバスカーにより提出されたのが、批判的自然主義です。というのは、それは自然主義と反自然主義の各々の長所を生かし、短所を切り捨てたうえに成り立っているものであるからです。いわば、自然主義と反自然主義を総合したものが批判的自然主義であると考えられます。バスカーは、自然主義と反自然主義の長所と短所を以下のように指摘しています(Bhaskar, 1979, p.20)。

まず、実証主義は、因果的法則ないし一般性が存在することを強調し、そういった法則が行為主体の自生的な理解にとって不透明であるかも知れないことを主張する点においては正しい、といえるでしょう。しかしながら、因果的法則を経験的規則性に還元し、それらを同定することによって説明を試みたとすることは誤りであるとされます。

バスカーは、法則というものを、否定しているわけではありません。しかし、法則イコール経験的規則性の同定という見方がきわめて不適切であることを指摘しているわけです。近年、吉田民人先生が、「法則定立科学」に対する「プログラム解明科学」ということを唱えておられますが、それはともかくとして、わたしたちは、社会学、あるいは社会科学における法則というものについて、再考する必要に迫られているように思います。

法則は、簡単にいってしまえば、現象の起こり方を意味するものと考えられるでしょう。それは、かつては、実験・観察のデータをまとめることを通じて、帰納的に得られる、と考えられていました。しかし、現代の科学においては、法則はまず仮説として立てられ、その仮説は、それ自体では実験・観察で確かめることが不可能なので、まずそれから実験・観察可能な命題を導き出し、その命題についての実験・観察を通して、問題の仮説が間違いではないことが確認される、という手続きがとられます。そうして仮説が法則に格上げされることになります。さらに、ある一定の領域においてさまざまな法則が確認され、それらの間の論理的関係が明らかになるにつれてその領域における諸法則が体形をなしていき、こうしてできた法則の体系が理論といわれる、と一般的には考えられているといっていいでしょう。しかし、そうしてみると、例えばギデンズの構造化理論は、理論とはいえないように思えてきます。実際に、ギデンズの理論に対して、そうした批判が投げかけられています。ギデンズの理論が、法則の体系をなしているようなものではないからです。

法則は、基本的には「全てのxについて、xがAであるならば、xはBである」という形をとっています。これから明らかなように、なんらかの条件というものが法則にとって非常に重要です。とりわけ、反事実的条件文によることになります。反事実的条件文とは、「事実としてはそうではないが、かりに、そうであったとするならば、そこから生じる帰結も実際とは違ったものになっていたであろう」というものです。一般的に信じられているのに反して、法則は、新しい事例を演繹的に導くことはできません。したがって、それが有する機能は予測的であって、説明的ではない、ということになります。

超越論的実在論においては、経験的規則性を同定することではなく、現象を生起させる生成メカニズムを説明することが目的とされますから、超事実性ということが主張されます。

 さて、他方で、反自然主義たる解釈学的な伝統は、社会科学がすでに解釈された現実を取り扱い、その現実は社会的行為者によって概念形成されるということを指摘した点においては正しいといえるでしょう。要するに、社会科学は少なくとも部分的には「主体−客体(概念−モノ)関係よりもむしろ主体−主体(概念−概念)関係を主題とする」と考えられます(Bhaskar, 1979, p.21)。しかし、こういった関係の様相に社会科学を還元することは誤りであるし、そのことによって合理的に擁護しうる概念的批判や変革の可能性を位置づけそこなっているのではないでしょうか。つまり、相対主義から逃れられなくなるということです。

実証主義と解釈学的伝統の長所と短所を受けて、批判的自然主義とは、以下のようなものであるとされます。それは、社会現象を生起させるメカニズムの超事実性を認めつつ、そのメカニズムが信念や意味から独立した存在であることを主張します(Bhaskar, 1979)。このような批判的自然主義によって、自然科学と社会科学の両者にあてはまる方法によって科学的説明が可能であり、けれども現象を生起させるメカニズムの存在論的差異によって、自然科学と社会科学には違いがあるといいうるのである(Bhaskar, 1979)。

 経験的実在論のなにが問題であるのか。それを、バスカーは認識論的誤りと呼んでいますが、経験的実在論が、存在論と認識論とを混同していることを問題にします。

こうしてみると、演繹法や帰納法には限界があるようです。したがって、超越論的実在論においては、新たな推論方法が必要とされます。そして、バスカーにより提示されるのが、リトロダクション(retroduction)ないしアブダクション(abduction)です。

ポパーに倣っていえば、演繹法とは、「すべてのからすは黒い」という一般的な主張から、「次に見るからすも黒いだろう」という特殊なものへの推論であり、帰納法は、「いままでに多くの黒いからすを見た」という特殊な観察から「すべてのからすは黒い」という一般的な主張に向かうことです。それに対して、リトロダクションとは、「いままでに多くの黒いからすを見た」という特殊な観察からからすを黒くする内在的なメカニズムの理論へと向かう動きを意味します。つまり観察された現象から、その現象の原因であり、現象の背後・深層にあるメカニズムへと遡行(アブダクション)することなのです。リトロダクションないしアブダクションにおいては、類推(アナロジー)や隠喩(メタファー)が重要な意味を持ちます。科学において、これらは貶められてきたのですが、近年では、その意義がかなり認められるようになってきています。

したがって、法則が表現するべきであるのは、事象の規則性ではありません。そうではなくて、そうした事象を生み出す客観的な構造やその構造の作動様式、それらを指してバスカーは生成メカニズムという語を用いますが、それが表現されなければなりません。

 バスカーは、科学の対象に関して、トランジティヴ(transitive)とイントランジティヴ(intransitive)ということをいいます。トランジティヴとは、そのまま訳せば「他動詞的」ということですが、他動的とかいう意味で、科学が先行業績などを念頭において行われる人間の特殊な批判的社会活動の所産である、ということです。イントランジティヴとは、「自動詞的」ということであり、科学の対象が人間活動に依存せず、それから完全に独立して存在し、運動しているということを意味します。要するに、科学のトランジティヴな対象とは、現実のいくつかの位相を理解し説明するために展開される概念や理論やモデルのことであり、イントランジティヴな対象とは、自然的世界と社会的世界を作り上げる実在的な存在とそれらの関係である、とでも言い換えることができるでしょう。

 

4. 自然主義の限界

超越論的実在論ならびに批判的自然主義の立場に立ったとき、先に示された問い、すなわち「われわれにとって可能な知識の対象とされるいかなる特性を社会が有しているのか」ということに対して、いかなる回答が与えられるというのか。

超越論的実在論は、しかし、。そのような意味で、解釈学的伝統も受け入れます。

バスカーは、社会現象を生起させるメカニズムである社会構造について、自然現象を生起させるメカニズムとの対比において考えています。自然現象を生起させるメカニズムと社会現象におけるそれとは明らかな相違がみられます。したがって、自然主義の限界として、自然の構造とは異なった社会構造に固有な特徴が以下のように提示されます(Bhaskar, 1986)。

 第1に、社会構造の活動依存性です。これは、社会構造はそれらが支配し、可能とし、そして拘束する人間活動の契機においてのみ存在するということを意味します。きわめて当然のことでありますが、構造は自動的に存立するものではなく、人間の活動においてのみ継続的に存在することが可能となります。人間のいない社会というものは存在しません。

 第2に、概念依存性があげられます。社会活動とは、行為主体の信念によって形作られる限りにおいてのみ意図的であるといえます。したがって、社会活動、そしてそれに依存する社会構造は、その意味で概念依存的であると考えられるでしょう。行為者は、何らかの意図ないし理由をともなって行為しており、その行為をつうじて世界を意味あるものとして構築しています。しかし、混同してならないのは、社会構造は、人間の意図したようにつくられているわけではない、ということです。むしろ、ほとんどの場合、人間の意図した活動により、意図せずして構造が形作られています。たとえば、わたしたちは、日々の生活においてなんらかの商品を買っています。そのことによって、資本主義という制度を成り立たしめている、といえます。しかし、資本主義の制度を維持しようとしてそうしているわけではないでしょう。あくまでもその商品が欲しいからそうしているにすぎないのです。

 第3に、時間−空間依存性です。社会活動は、ある場所、ある時において行われます。社会構造は、すでに確認したように、そうした社会活動に依存していますから、時間的空間的に不変的なものではありません。社会活動にとって、構造の再生産は必然的ですから、社会活動が継続的に行われる限りにおいてのみ、構造は時間と空間にわたって存在することができるのです。

 そして第4に、社会関係依存性が指摘されます。社会活動とは、行為主体がある位置をしめ、その位置に対して権利と義務として課される実践を行うことである、といえます。このような位置−実践のあいだの関係の集合が、いわば社会構造であるとも考えられるでしょう。構造と実践の媒介システムが定まると、それは特定の位置と実践の結びつきに依存する他のあらゆる実践の条件です。つまり、その媒介システムによって特定の実践が産出されるのです。したがって、社会構造の再生産と変形はそのような実践に依存しているわけですから、社会構造はあらゆる他の社会構造にとって必然的であり、また社会形式の同一性にとっての条件であるということになります。この考え方は、行為と構造の関係にかんして、部分と全体という関係とは違うものであり、ギデンズのいう「契機と全体性」の関係に近いと考えられます。

 以上は、自然主義の存在論的限界として考えられています。しかし、自然主義の限界はこれのみに限られません。さらに3つの限界、すなわち認識論的、関係論的、批判的限界が指摘されます(Bhaskar, 1979)。

自然主義の認識論的限界は、社会科学の対象が自然科学と違ってオープン・システムであるということに起因します。すでに言及したように、社会科学の対象たる社会は、歴史的な存在であって、不変の経験的規則性がえられるようなものではありません。社会科学の対象がオープン・システムであるということは、重要で決定的な検証状況が欠如しているということを意味します。このことからする当然の帰結として、社会科学における理論の合理的な評価や発展の規準は、もっぱらそれがどの程度説明的であるかということであって、それの予測可能性という規準には依存していないということになります。要するに、社会科学においては、予測は不可能なのです。また、ヒューム的な法則の存在もきわめて疑わしい、ということです。

 次に、自然主義の関係論的限界は、社会科学における研究対象と研究者の関係にかかわる問題です。自然科学とは違って、社会科学はその対象に自らを含まざるをえません。社会科学が生み出す知識は、その対象たる社会と相互依存的な関係にあります。したがって、社会は社会科学のもたらす知識によってつねに変化する可能性があります。ということは、社会科学はつねに未完成であって、終わりがない、ということでもあります。

 最後に、自然主義の批判的限界とは、事実と価値、理論と実践の二分法が社会科学においては成り立たないということを意味します。批判的自然主義は社会科学にかんしていかなる中立性も認めるものではありません。中立な立場にある科学というようなものは存在しようがないのです。このことは、認めざるをえないことです。要は、そのような認識にたって「社会学の社会学」あるいは「社会科学の社会学」を展開することです。このことは、社会学的知識が社会に介入することを考慮するならばならば、なおさら必要です。社会科学が生み出す言説がそもそも可能とされる社会的条件が問われる必要があります。とりわけ、社会学は自らの営為にたいしても反省的にかかわらなければならないでしょう。

 

5. 終わりに−批判としての,そして人間開放のための社会学

 ブルデューは、「社会学は、人を自由の幻想から解放することによって、もっと正確にいうなら、幻想的自由に対する場違いの信仰から解放することによって、人を自由にするのです」(Bourdieu, 1987)と述べています。わたしたちにとって、真の意味ある科学の実践は、世界に介入し、人間解放を押し進めることができるものではないでしょうか。そうでなければ意味がない。少なくとも、私はそう考えます。バスカーは、科学における合理性を主張することができるとしたら、それはいかなるものであるのかを徹底して追求していき、そうして導き出されたのが、かれの超越論的実在論および批判的自然主義です。マルクスは『資本論』において、「彼らはこのことを知らない。しかし、彼らはこれをなすのである」(Marx,1867)と述べています。超越論的実在論にもとづく科学は、「彼らが知らずになしている」ことが客観的なメカニズムによるものであることを「説明」し、そのことによって、人間の現実的可能性の最大の広がりを位置づけることを可能にします。そして、それによって行為の合理的な自律性を増進させることができるのです。

【文献】

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        1984, The Study of Ideology, Polity.


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